2009年06月16日

細菌を不活化させるのに最も効果が高いのは

細菌を不活化させるのに最も効果が高いのは、加熱することである。食中毒の原因菌は、75度以上の環境で1分以上経つとほとんどが不活化する。大きな食材では食材の中心が75度以上に1分以上ならなくてはいけないことに注意しなければいけない。例えば、厚さ3cm程度のハンバーグを焼く場合、中心温度が75度以上になるまでに9分近くかかるという実験結果もある[6]。ただし75度1分という加熱条件には、明らかに加熱し過ぎでこの加熱条件では製品が成り立たなくなる、という批判もある。実際、アメリカ合衆国政府やカナダ政府などの食品安全のガイドラインではさらに弱い条件での加熱を示している[7]例えば、カナダ保健省(Health Canada)ではハンバーグは71度に到達することとしている。また、ノロウイルスを不活化するためには、中心温度85℃以上で1分間以上加熱する必要がある[8]など、この加熱基準はあくまでも目安と考えたほうがよい。

中心まで十分に加熱するためには、食材の切り方を工夫したり、低火力で長時間加熱するなどの必要がある。電子レンジによる加熱は、表面を焦がさず中心まで均等に加熱することができる。大きなハンバーグなどは電子レンジで予備加熱を行なってからフライパンなどで焼くと、安全でおいしく仕上がる。
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しかし、加熱して不活化するのはあくまで細菌であり、芽胞の不活化や毒素の分解温度ではない点に注意する必要がある。細菌が既に毒素を作り出している可能性がある場合には、より高温・長時間の調理が必要となる。例えば、黄色ブドウ球菌が作り出すエンテロトキシンは通常の加熱調理ではほとんど分解(失活)しない。また、E型を除くボツリヌス菌の毒素の一部は100度で10分以上、あるいは80度で30分以上加熱しないと失活しないものもあるが、E型の毒素は63度で10分の加熱により失活するなど、細菌・毒素のタイプによる違いもある。

さらに気をつけるべき点は、ボツリヌス菌、ウェルシュ菌、セレウス菌など耐熱性の高い芽胞をつくる細菌があり、これらの芽胞は100度でも完全に不活化させることができない。75度1分以上の加熱で人体に影響を与える量以下に十分抑えることができるが、加熱後長時間放置しておけば生き残った少数の菌が増殖してしまうことになる。

酸(酢など)で殺菌を行なうことも多い。特に生の魚介類に酢やレモン汁をかけて食べる料理はマリネと呼ばれ、世界中の魚介類が豊富な地域で食べられている。しかし、酸による殺菌効果はそれほど高いものではない。腸炎ビブリオなど酸に弱い菌もあるが、一般的な食事に適した濃度の酸で殺菌できる菌は少ない。基本的にマリネなどは生食と同等の注意が必要である。

日本酒、ワイン、焼酎程度のアルコール濃度では、一部の原因菌は不活化することはできない。従って、原因菌の増殖防止あるいは滅菌(殺菌)目的でアルコール飲料を使用することは予防方法にはならない。

ワサビや胡椒、唐辛子などの香辛料にも殺菌効果があるとされる。特にワサビは、その辛みの主成分であるイソチオシアン酸アリルに強い殺菌作用がある。ただし、イソチオシアン酸アリルは揮発性が高いので、長時間に渡る殺菌効果の持続は望めない。

2009年05月30日

北越諸藩の加盟?奥羽越列藩同盟の成立

翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。

当時、(国後島、択捉島などの北方四島を含む)北海道は、函館周辺を支配する松前藩を除けば、仙台藩、会津藩、庄内藩、盛岡藩、久保田藩、弘前藩の支配下に置かれていた。特に、仙台藩、会津藩、米沢藩は北海道に広大な領地と警衛地を有し、この三藩だけで北海道の約3分の2を支配していた。そのため、奥羽越列藩同盟(北部政府)の領土は、東北地方、北海道、新潟、すなわち日本列島の約半分に及んだ。

副総督沢為量率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かった。
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奥羽越列藩同盟のそもそもの目的は『救会・救庄』による戦闘の回避であった。しかしながら、嘆願の拒絶により戦闘が不可避な状況となるにつれて、奥羽越列藩同盟は軍事同盟の性格を強めるとともに、「北部政権」の樹立へ進んでいくことになる。

このための機関として、白石城内には奥羽越公議府(公議所とも)が設けられ、諸藩から派遣された参謀による評議が行われた。

2009年04月27日

最新建築技術と火力を用い

最新建築技術と火力を用い、峻険な地形を活用した構造となっている。

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108の主要塞を15kmの間隔で配置、連絡通路として地下鉄を通している。戦艦に準じた構造の火砲や射撃装置を配置、前方には対戦車用に配置された鉄骨と対歩兵用の鉄条網地帯を設けている。厚さ350cm以上のコンクリートで防御され、発電室や武器弾薬庫は全て数十mの地下に建造、更に各区画は装甲鉄扉で区分された。
マジノ線構想の戦略上の問題として、以下の点が指摘されている。

国境一帯を網羅した防御体制を展開するために、常に大量の兵力を配備せねばならなかった。
中立国ベルギーを刺激するのを避けるため、また資金不足のため、対ベルギー国境は後回しになり、第二次世界大戦開戦時には構築されていなかった(第一次世界大戦時にもドイツはベルギー経由でフランスに侵攻しようとした)。
膨大な建設費や維持費が軍事予算を圧迫し、他部門(新型の戦車や戦闘機などの調達)に資金を充てる事が困難になった。
「マジノ線の防御は鉄壁である」との過度の期待のため、また上述の通りマジノ線に大軍を投入したため、機動力を軽視する結果に陥った。
ドイツ軍がアルデンヌを突破した後、マジノ線守備隊は直接ドイツ軍と戦う部隊の増援にもドイツへ逆侵攻を行ってドイツ軍部隊への補給を寸断することも出来ず、戦略的、戦術的に殆ど存在意義の無い「遊兵」と化してしまった。
巨費を投じて築造されたにも拘らずドイツ軍の侵攻を許した事から、「無用の長物」の代名詞として引き合いに出される事が多いが、正面からの攻撃に対しては一定の効果があった。その事は、ドイツ軍が主にマジノ線の間隙を衝くルートで進撃した事からも窺える。

また、対ベルギー国境に強固な要塞群が築かれなかったのは予算不足でも隣国に対する配慮でもなく、来るべき次の戦争において、ドイツ軍に正面攻撃を躊躇わせ、先の大戦同様ベルギーを通るように仕向けるための高等戦略であったとする説もある。ただし意図的に弱点を残したとする解釈もある[1]。

なお、一般にマジノ線の膨大な建設費がフランス軍の近代化を圧迫したとの見方が強いが、実際にはこの時期において軍事費に関する限り、予算不足は存在しなかったに等しい。

竣工直前の数年間、フランス陸軍は計上された軍事予算中47%を消費しなかった。ドイツ再軍備宣言の翌年、政府から軍拡四カ年計画を求められたガムラン大将は90億フランを計上し、これに政府と議会が上方修正を加え総計200億フラン近い予算が承認されている。

この計画は1938年と計画最終年にあたる1939年にさらに約100億フランずつを増額されたが、戦争開始直前においても軍はこれを完全に消費していなかった。

また、軍は第一次世界大戦型の塹壕戦に必要としない装備を調達しようとはしなかった。一例を挙げれば、1940年5月までに生産されたルノー R35戦車約五百両の半ばは外国への輸出用であり、前線部隊に不足していた25mm対戦車砲や各種の対空砲も専ら輸出に回されていた事実も忘れてはならない。

2009年04月11日

テトラコルド

テトラコルド(もしくは「テトラコード」,古代ギリシャ語のτετράχορδον(テトラコルドン)より。「4つの弦」の意)は、4つの音による音列のことである。現代では特に音階・旋法の理論で重要な意味を持っている。

リラと呼ばれる古代ギリシャの竪琴に由来する概念である。この楽器には4本の弦が張られ、それぞれの弦は、最低音と最高音が完全四度の音程を為すように調律され、その間に張られた2本の弦は完全四度の音程内の適当な音に調律されていた。このことから、主に完全四度とその間の2つの音を合わせた4つ音のことを示す概念として使用されることが多い。

現代の音楽理論では、「ド-ファの完全四度とソ-ドの完全四度の枠を予め用意した中に、それぞれ適当なテトラコルドを挿入することによって七音音階ができる」という文脈で使用されることが多い。すなわち、「ド○○ファソ○○ド」の○に適当な音を挿入すればよい、といった意味である。たとえば、長音階「ドレミファソラシド」は、テトラコルド「ドレミファ」と「ソラシド」を積み重ねたものである。

この概念の拡張例として、小泉文夫による日本の旋法の理論がある。この理論においては、完全四度の枠内に挿入される音の数は、通常の2音ではなく1音とされる。すなわち、「ド○ファソ○ド」の○に適当な音を挿入すればよい。たとえば、沖縄音階「ドミファソシド」は、擬似テトラコルド「ドミファ」と「ソシド」を積み重ねたものとして理解することができる、などと説明される。

ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル


2009年03月27日

ドールハウス

ドールハウス(イギリス英語:doll's house、アメリカ英語:dollhouse)は、ミニチュアサイズの大きさに作られた模型の家のこと。ミニチュアハウスとも呼ばれる。建物や部屋、家具、調度品などを含めた生活空間を表現する。

王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

概要 [編集]
19世紀ヨーロッパの中流クラスの市民層で、女の子に与えられた玩具の代表的なものであり、男の子にはスズの兵隊などがこれに代わるものとして与えられた。往々にして、これらは子ども部屋としてあてがわれた屋根裏部屋で、大人の生活を妨げないで楽しまれるためのものだった。

ヨーロッパ伝統のクラフトとして世界中に愛好家を持ち、日本には1970年代後半に入って紹介された。日本ではドールハウスに人形を飾ることはあまり好まれない傾向にある。

イギリスのメアリー女王に1924年5月に贈られたドールハウス (w:Queen Mary's Dolls' House) が 1フィートを1インチに縮小した1/12 の縮尺だったことから 1/12 サイズ(インチサイズ)が標準とされているが、厳密に規格化されているわけではなく、1/8 サイズや子供が中に入って遊べる 1/2 サイズのドールハウスなどもある。

2009年03月11日

カカドゥ国立公園

カカドゥ国立公園(Kakadu National Park)はノーザンテリトリーにあるオーストラリアの国立公園の一つ。ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。40万年以上前から人が住んだ形跡があり、洞窟壁画が残されている、文化的意義と固有の動物や、氾濫原などを有する環境的意義両方を有する国立公園である。

この公園の名前になっているカカドゥの名前はガグジュと呼ばれるアボリジニの方言の一つである。現在ではこの方言を話す民族集団は消滅したが、この民族集団の子孫は現在でもカカドゥに住んでいる。

公園内の気候は、大きく分けて雨期と乾期の二つに分かれる。雨期(10月 - 4月)は観光が不可能になるが、乾期(5月 - 9月)には可能になる。また特に先住民であるビニンジ、ムングイと呼ばれるアボリジニはこの公園における季節を以下の6つに分けている。
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

グヌメレン(Gunumeleng) - 10月中旬から12月下旬。モンスーン季節の前期。気候は暑く午後に雷を伴った嵐が吹く。
グジューグ(Gudjewg) - 1月から3月。モンスーンの季節。雷を伴った嵐が吹き多雨。洪水が起こる。この時期における温度と湿気は生物の育成に不可欠である。
バンガレン(Banggerreng) - 4月。 洪水が起こり、強い風が草をなぎ倒す。
イェッゲ(Yegge) - 5月から6月中旬。湿度は低く気候的には涼しい。アボリジニの人々は「国をきれいにする」ため一部の土地を焼き払い放牧を開始する。
ワールゲン(Wurrgeng) - 6月中旬から8月中旬。比較的寒い時期で気候も乾燥している。小川の水はなくなり、氾濫が止まる。
ガールン(Gurrung) - 8月中旬から10月中旬。暑く乾燥した季節。
また、この地域はアボリジニの文化と密接に関連した地域であるため、この公園は自然を見せるだけでなく、アボリジニの文化にも触れることの出来るユニークな国立公園でもある。独特の自然景観を持つイエロー・ウォーター・ビラボン(上部の写真)のみでなく公園内にはアボリジニの岩壁画などを見ることが出来る。

岩壁画
ファイル:Kakadu 2419.jpg
カカドゥの壁画。動物の骨格や内臓が表現されているアボリジニの描いた壁画が、このカカドゥ公園内に1000以上発見されている。描かれた絵は、時代によってモチーフ・技法が異なっているが、中でも有名なのは、レントゲン技法で描かれた壁画である。

レントゲン技法で描かれたものは、主に紀元前5000年前のもので、肺魚やウミガメの骨格や内臓が表現されている。


2009年02月23日

オイラト語(Хальмг келн)

オイラト語(Хальмг келн)はオイラト族諸部族によって話される言語である。話者はロシア連邦カルムイク共和国、モンゴル国西部、中国新疆ウイグル自治区、青海省、甘粛省に分布しており、書き言葉としてはカルムイク共和国で用いられるカルムイク語、中国新疆ウイグル自治区で用いられるオイラト文語が存在する。言語類型論的には膠着語に属し、語順は日本語に似ている。Redbookに載る危機言語。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

オイラト語、オイラット語などとも表記される。カルムイク共和国で用いられているオイラト語を限定してカルムイク語ということもある。中国語では?拉特?(wèilātèyŭ)と呼ばれる。

オイラト族の文字はモンゴル文字を借り改良した文字なので、モンゴル語の影響は結構ある。

オイラト語の話者はロシア連邦カルムイク共和国、モンゴル国西部(ホブド・アイマク及びオブス・アイマク)、中国新疆ウイグル自治区、青海省、甘粛省に暮しているオイラト族である。

カルムイク共和国の人口の半数はカルムイク人が占めている。彼らは1630年代に内戦を避けてボルガ川流域に移動したオイラト族トルグート部の末裔である。ロシア連邦においてオイラト族とオイラト語はひとつの民族、ひとつの言語とみなされ、カルムイク人、カルムイク語と呼ばれる。カルムイク共和国においてオイラト語はロシア語と並ぶ公用語であり、キリル文字による書き言葉を持っている。

モンゴル国及び中国においてオイラト族はモンゴル民族、に含まれ、独立した一つの民族としてみなされておらず、しかし、オイラト族本来は文化、習慣などはモンゴルと違うである。オイラト語も行政上それぞれの国における標準語(モンゴル国ではモンゴル語のハルハ方言、中国ではモンゴル語のチャハル方言を標準語の基礎としている)に対する方言とされており、実際それぞれの標準語の影響を受けた中間的な言語(または方言)に変質している。モンゴル国及び中国のオイラト語話者は書き言葉としてはそれぞれの標準語を用いるが、唯一新疆ウイグル自治区のオイラト族は1648年に作られたトド文字を用いたオイラト語の書き言葉、すなわちオイラト文語を用いている。

地域 口語標準語 書き言葉(文字)
カルムイク共和国 カルムイク語 カルムイク語(キリル文字)
中国新疆ウイグル自治区 オイラト文語(トド文字)
中国青海省、甘粛省

オイラト語派Redbookに載る危機言語であり、市中でもほとんど聞くことは稀である。ロシア構成共和国であるカルムイク共和国の首都にあるカルムイク大学にはカルムイク語・文化学科がありオイラト語を教える学生を育ててはいるが、彼らの普段の会話からもオイラト語を聞くことは稀というのが21世紀初めの状態である。

カルムイク共和国、モンゴル国、中国におけるオイラト語は文化的に一つの言語圏をなしてはいないといえ、発音・文法・語彙の面においてその差はある。

標準語と方言
オイラト語の標準語を定めているのはカルムイク共和国のみであり、モンゴル国及び中国(内モンゴル)の影響で、オイラト語はモンゴル語の方言とみなされているため標準化されていない。カルムイク共和国のオイラト語標準語は基本的にトルグート方言に基づいているが、ドルベト方言の要素も含まれている。

カルムイク共和国の主要な方言はトルグート方言とドルベト方言である。この二つは音声と語彙にわずかな差が見られる。

モンゴル文語の第二音節以降の-ayi-, -oyi-に対してトルグート方言では/a?/が、ドルベト方言では/æ?/が相当する。
トルグート方言の第一音節でb, mに先行する母音/u, y/がドルベト方言では/o, ø/となる。
ドン川流域のカルムイク語をブザワ方言として一つの方言とみなすことがある。上記1.の特徴はトルグート方言に一致するが、そのほかの面ではドルベト方言に一致する。

その他の地域の方言は調査が不十分であり、詳しい分類は行われていない。

音韻
ここではカルムイク共和国におけるオイラト語、すなわちカルムイク語の音韻について述べる。

母音
カルムイク語の短母音には/a, o, u, æ, ø, e, y, i/の8つがある。

前舌 後舌
非円唇 円唇 非円唇 円唇
狭 и/i/ ?/y/ у/u/
中 е/e/ ?/ø/ о/o/
広 ?/æ/ а/a/

短母音は第一音節においては8つが音素として区別されるが、第二音節以降では単一の音素/?/に中和される。長母音はそれぞれの短母音に対応する形で/a?, o?, u?, æ?, ø?, e?, y?, i?/の8つが音素として存在する。二重母音は存在せず、モンゴル文語のayi, uyi, oyiには/æ?, y?, ø?/が対応する。

母音調和
母音は短・長に関係なく後舌母音/a, o, u/と前舌母音/æ, ø, e, y, i/に分類される。第一音節の母音が後節母音である場合、第二音節以降の長母音は/a?, u?, i?/のいずれかに限定され、第一音節の母音が前舌母音である場合、第二音節以降の長母音は/æ?, ø?, i?/のいずれかに限定される。第二音節以降の短母音は音素としては一つに中和されるため、母音調和とは無関係である。また、モンゴル語ハルハ方言などでは、円心母音/o, ?/の後で/a?, e?/がそれぞれ/o?, ??/に同化されるという前進的円唇化が起こったが、オイラト語においては前進的円唇化が起こらなかったため、母音調和の構造が比較的単純である。

第一音節の母音 第二音節以降の長母音
a, a?
o, o?
u, u? a?, u? i?
æ, æ?
ø, ø?
e, e?
y, y?
i, i? æ?, y?

このような母音調和は一つの形態素内のみにとどまらず、接尾辞まで及ぶ。そのため、接尾辞のなかには/a/~/æ/及び/u/~/ø/の母音交替による異形態を持つものが多い。

子音
両唇 歯茎 口蓋化歯茎 軟口蓋 口蓋垂
破裂音 無声 п/p/ т/t/ /t?/ к/k/
有声 б/b/ д/d/ /d?/ г/g/
摩擦音 無声 с/s/ ш/?/ х/χ/
有声 з/z/ ?/?/
破擦音 無声 ц/ts/ ч/?/
有声 ?/?/
鼻音 м/m/ н/n/ ?/ŋ/
震え音 р/r/
側面音 л/l/ /l?/

/b/は語頭及び/m/の直後では[b]、語中・語末では摩擦音として現れ無声子音の前では[?]、それ以外では[β]となる。

表記
オイラト族は文字なく、モンゴル帝国時代モンゴルに支配された時期、モンゴル文語を用いていたが、1648年にザヤ・パンディタがモンゴル文字を改良したトド文字を考案してからは、トド文字によって書き表されるオイラト文語を書き言葉とした。ただしこのオイラト文語はオイラト語の口語に完全に立脚したものではなく、それまで用いてきたモンゴル文語の影響が多々あるということが指摘されている。

現在、オイラト文語を用いているのは中国新疆ウイグル自治区のオイラト族のみである。中国のその他の地域では内モンゴル語が、モンゴル国ではモンゴル語が書き言葉として使用されており、オイラト語を表記する標準化された正書法を持たない。

カルムイク共和国においては1924年にキリル文字による正書法を定め、1931年にはモンゴル共和国、カルムイク共和国、ブリヤート共和国共通のセレンゲ方言を基礎としたラテン文字による正書法に転換したが、1937年にはソ連内のラテン字化運動の路線変更の影響もあり他の共和国とは異なるカルムイク共和国独自のキリル文字による正書法を定めた。この正書法はオイラト語のトルグート方言を基礎としている。

トド文字による表記
キリル文字による表記
カルムイク語に用いるキリル文字はロシア語に用いる33のキリル文字に?, ?, ?, ?, ?, ?の6字を追加した39字であり、母音字13字、子音字23字、半母音字1字、記号2字である。このうち、в, ё, ж, ф, щは外来語にのみ用いられ、固有のカルムイク語に用いられることはない。

大文字 А ? Б В Г ? Д Е Ё Ж ? З И Й К Л М Н ? О
小文字 а ? б в г ? д е ё ж ? з и й к л м н ? о
音価 /a/ /æ/ /b/ ([v]) /g/ /?/ /d/ /e/ ([jo]) ([?]) /?/ /z/ /i/ /j/ /k/ /l/ /m/ /n/ /ŋ/ /o/
大文字 ? П Р С Т У ? Ф Х Ц Ч Ш Щ Ъ Ы Ь Э Ю Я
小文字 ? п р с т у ? ф х ц ч ш щ ъ ы ь э ю я
音価 /ø/ /p/ /r/ /s/ /t/ /u/ /y/ ([f]) /χ/ /ts/ /?/ /?/ ([??]) /i:/ /e/ /ju/ /ja/

第一音節の短母音は母音字一つ、長母音は母音字を二つ重ねて書くことで示す。ただし第二音節以降では短母音は弱母音化するため表記せず長母音は母音字一つで示す。例:/ba?t?r/→баатр

文法
名詞の曲用には複数、格、再帰所属語尾、人称所属語尾の4つがある。格にはモンゴル語ハルハ方言にはない連帯格が存在する。
動詞の活用には活用語尾(命令形、終止形、形動詞形、副動詞形)と人称語尾がある。人称語尾は主語の人称と数を表す、モンゴル語ハルハ方言にはない文法要素である。
基本語順はS-O-Vであり、修飾語は非修飾語の前に置かれるため、語順は日本語に非常によく似ている。

語彙
カルムイク語はモンゴル語族の基本語彙の他、ロシア語から多くの語彙を借用している。

2009年02月07日

長慶天皇

長慶天皇(ちょうけいてんのう、興国4年/康永2年(1343年) - 応永元年8月1日(1394年8月27日、在位:正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日) - 弘和3年/永徳3年(1383年)10月)は、南北朝時代の第98代、南朝第3代天皇である。諱を寛成(ゆたなり)という。明治44年(1911年)に南朝が正統とされたあとも在位認定はされていなかったが、八代國治の実証学的な文献研究により学術的な正当性をもって在位が確認された(八代が旧南朝の勢力圏であった奈良の旧家から古文書を発掘した)。

後村上天皇の第一皇子で、母親は藤原勝子(嘉喜門院)である。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

中宮:藤原(西園寺)氏(阿佐殿?) - 西園寺公重女[1]
行悟(後円満院宮)(1377-1406) - 園城寺長吏
女御:某氏教子
世泰親王(?-1377?) - 近世の南朝系図は後亀山天皇皇子とする。
母不詳
皇子玉川宮(?-?)
海門承朝(1374頃-1443) - 南禅寺住持
尊聖(佐山宮)(1376-1432) - 勧修寺長吏。猶子説あり[2]

1368年3月11日 後村上天皇の崩御に伴い、南朝の御座所(住吉行宮)の置かれていた大阪住吉の住吉大社宮司の津守氏の館(住之江殿、正印殿)で即位したとされる。

南朝は北畠親房ら指導的人物を失って弱体化しており、後村上天皇時代には北朝との和睦交渉が行われていたが、長慶天皇の代には交渉が途絶えており、また南朝方の武将である楠木正儀が北朝へ帰服している事などから、北朝に対して強硬派の人物であったとも考えられている。1383年10月に朝要分免除の綸旨を出してから間もなく(1384年説あり)、弟の後亀山天皇に譲位したと言われており、南朝は再び北朝との和睦交渉をはじめる。南北朝合一後の動静は不明で、京都へは入らなかったという説と、皇子の海門承朝が止住した天竜寺塔頭の慶寿院で晩年を過ごしたという説がある。1394年8月1日に崩御、享年は52か。

書や詩歌を行い、源氏物語の注釈書である『仙源抄』や、詩歌多数を残している。

即位の事実は疑問視されており、江戸時代ころから議論がされていた。明治以降に実証的研究がなされ、大正時代には『長慶天皇御即位の研究』などが刊行される。1926年(大正15年)10月には詔書が出され、正式に98代天皇として皇統に加えられ、陵墓も指定された。

東北までに至る各地に長慶天皇潜幸伝説が残っており、南部煎餅の祖とする伝承もある。

京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町に所在する嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)。天皇の晩年を伝える資料は伝えられておらず、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や、有力な伝説地などの調査を行なったが陵墓に関わる資料は発見に至らなかった。しかし天皇の皇子など近親者が晩年は地方を引き上げ入洛していることから天皇も晩年は入洛したことが推定され、また、皇子の海門承朝(承朝王・相国寺三十世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に由来して「慶寿院」と称したことから天皇もこの地で晩年を過ごし(当時天皇はその在所によって称された)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。臨時陵墓調査委員会(1935年?1944年)で審議の結果、桓武天皇陵や安徳天皇陵など埋葬地以外が陵に治定されている前例を踏まえ、その跡地を整備、陵墓参考地に指定されたのち1944年2月11日(旧紀元節)に陵号を定め、同時に域内に皇子の海門承朝の墓も定められた。 しかし、他にも「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に点在しており、青森県、川上村(奈良県)、太田市(群馬県)、二戸市(岩手県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。

また、国宝「赤糸威鎧 兜、大袖付」(八戸市櫛引八幡宮所蔵)は、長慶天皇御料と伝えられている。

元中2年(1384)9月10日には高野山に「長慶天皇宸筆御立願文」(国宝、金剛峯寺蔵)を納めている。これには、「太上天皇寛成」の宸筆署名がしたためられている。

2009年01月22日

ロシアには基本的に大陸性の気候が卓越する

ロシアには基本的に大陸性の気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと、亜寒帯(冷帯) (D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって大陸性気候の特徴がはっきりしてくる。東シベリアには冬にシベリア高気圧が発達し、放射冷却のために気温が下がる。北半球でもっとも寒くなり、寒極と呼ばれる。例えば-71.2度(オイミャコン)、-66.7度(ベルホヤンスク)。しかしながら夏季には最高気温が30度を超える。

典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。

下図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適応したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。

亜寒帯
Dfa 亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が22度以上の地域。地図では明るい空色で描かれている。黒海とカスピ海に挟まれた狭い地域に広がる。
Dfb 亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が10度以上22度未満であり、月平均気温10度以上の月が4カ月以上ある地域。地図では空色(シアン)で描かれている。ポーランドやハンガリーなどの中東欧諸国と共通の気候区分でもある。首都モスクワを含み、ロシア西部からモンゴル国境西端まで広く分布する。沿海州北部やサハリン北部にも見られる。モスクワの年平均気温は5.3度、1月の平均気温は-7.5度、7月は18.4度、年平均降水量は705.3mmである。
Dfc 亜寒帯湿潤気候のうち、以下の3条件を満たす地域、すなわち最暖月が10度以上22度未満、月平均気温10度以上の月が3カ月以下、最寒月が-38度以上-3度未満。地図ではDfbの北に広がる暗緑色で描かれている。北欧諸国と共通の気候区分であり、ロシア領土に占める面積ではもっとも広い。中央シベリア高原からカムチャツカ半島にかけて一部Dfdに移行している部分以外は、全国にまたがっている。植生はタイガ中心。
Dfd 亜寒帯湿潤気候のうち、3つの条件、すなわち最暖月が10度以上22度未満、月平均気温10度以上の月が3カ月以下、最寒月が-38度未満を満たす地域。中央シベリア高原から東に延びるさらに暗い緑色で描かれている(内部にDwcの領域を含む)。
Dwb 亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が10度以上22度未満、加えて月平均気温10度以上の月が4カ月以上ある地域。地図では青紫色で描かれている。モンゴル国境から北にかけて広がる。
Dwa 亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が22度以上ある地域。地図では薄紫色で描かれている。Dwbと隣接し沿海州に向かって広がる
Dsb 高地地中海性気候のうち、最暖月が10度以上22度未満、加えて月平均気温10度以上の月が4カ月以上ある地域。地図では赤紫色で描かれている。カムチャッカ半島西岸などに見られる。
Dsd 高地地中海性気候のうち、3つの条件を満たす地域。すなわち、最暖月が10度以上22度未満、月平均気温10度以上の月が3カ月以下、最寒月が-38度未満。地図では薄赤紫色で描かれている。Dsbに隣接したごく狭い範囲に見られる。地球上でこの地点にのみ見られる気候区である。

その他の気候区
ET ツンドラ気候。地図では薄い灰色で描かれている。北極海沿岸全域に広がる。
BSk ステップ気候のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図では黄土色で描かれている。モンゴル西端から北に伸びるたごく狭い範囲に加え、カスピ海沿岸に見られる。
BWk 砂漠気候のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図ではサーモン色で描かれている。BSkに隣接したごくわずかな範囲に見られる。
Cfa 温暖湿潤気候。黒海沿岸の狭い地域に見られる。

歴ロマノフ朝以前
ロシアとウクライナ・ベラルーシの原型である中世のルーシ地域は、862年にノルマン人リューリクがノヴゴロドの公となり、その一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていく過程で形成されたと年代記に記録される。当初のルーシの中心は、現在はウクライナの首都であるキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境で、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。

数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア帝国へと発展してゆく。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られていた。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後は大貴族の抗争で国内が大混乱に陥り、ポーランドによるモスクワ占領まで起こった。

ロマノフ朝(帝政ロシア)
1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。18世紀、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703)、大北方戦争(1700〜1721)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。エカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1792年)に勝利すると共に、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣され日露関係史が実質的に始まった。
ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

19世紀になるとロシアはナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス軍に侵攻されたが、大損害を負いながらこれを撃退し、戦後はフィンランドやポーランド立憲王国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・民族主義運動は厳しく弾圧された。

19世紀後半からは不凍港獲得を悲願として南下政策を推し進めていき、これによってトルコ等周辺国と戦争を引き起こし、イギリスとの対立が激化していく。しかしクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は無政府主義者による皇帝暗殺まで発展した。この時期、極東ではアロー戦争の仲介料として沿海州を清から獲得しウラジオストクを建設した。

19世紀末には、ロシアはそれまでのドイツ・オーストリアとの三帝同盟からフランスとの露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加によりシベリア鉄道の建設が行われている。1905年に血の日曜日事件 (1905年)が発生し、日露戦争で敗れると、ロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。

2009年01月15日

DNAとタンパク質の情報を仲介する伝令RNA

こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

1960年代になるとDNAとタンパク質の情報を仲介する伝令RNA(mRNA)が発見され、さらにDNA情報とタンパク質構造との関係すなわち遺伝暗号が明らかにされた。一方ジャック・モノーとフランソワ・ジャコブは細菌による研究から、調節タンパク質がDNA上の遺伝子に結合しmRNAの転写を調節することを明らかにした(オペロン説)。後に高等生物でもこれに似た転写因子が遺伝子発現調節で主要な働きをしていることが明らかになった。このように遺伝情報はDNA→mRNA→タンパク質というふうに一方向に伝達されることが確定し、この図式はセントラルドグマ(分子生物学の中心教義)と呼ばれるようになった。ただし1970年には逆にRNA→DNAの流れ(逆転写)、つまりセントラルドグマの例外もあることが発見された。こうして遺伝現象の基本的な部分は分子の言葉で記述されるようになった。

新技術と新分野の開花
1970年代には高等生物も分子生物学の対象となる。この背景には目覚しい技術的進歩があった。

1970年代半ばまでに各種のDNA修飾酵素が単離され、人工的な遺伝子組換えが可能となった。しかしこれによるバイオハザードの恐れが指摘され、アシロマ会議での議論の結果、科学者は厳格な自主規制のもとで研究を進めることとなった(現在はカルタヘナ議定書により法的規制もある)。遺伝子組換え技術は分子生物学をさらに発展させ、またバイオテクノロジーの重要な柱ともなった。この分野での他の画期的な技術には、70年代後半から発展したDNAシークエンシング(遺伝子配列が容易に「読める」ようになった)と、80年代に開発されたポリメラーゼ連鎖反応(PCR)がある。

1970年代から80年代にかけて、がんの研究を直接の目的として動物の遺伝子研究が推進され、多数のがん遺伝子が発見されるとともに、細胞内シグナル伝達経路が明らかにされていった。これとも関連して、形態形成などの研究が進んでいたショウジョウバエも再び脚光を浴び、遺伝子レベルでは高等動物との共通点が多いことがわかってきた。

こうした流れの中で20世紀末になると、生物のゲノムの配列をすべて調べれば今までにない情報が得られるであろうと期待され、各種生物のゲノムプロジェクトが着手された。ヒトについても1990年にゲノムプロジェクトが始まった。これは生物学史上初の巨大プロジェクトだったが、その間の技術の進歩にもより、2000年にはヒトのほぼ全ゲノムが解読された。現在では医学研究資源とするために個人のゲノム配列(分子生物学の功労者ワトソンおよびクレイグ・ヴェンターのもの)さえ解読され公開されている。

現在
ゲノム配列が解読された後の研究段階はポストゲノムと呼ばれる。ここでは遺伝子を基本とする各種産物・現象(RNA、タンパク質、タンパク質間相互作用、代謝物等々)を網羅的に解析することが中心となり、これらはオーミクス(-Omics)と総称される。また現在、転写因子などに加えて、多種多様なncRNAも遺伝子発現に多大な影響を及ぼしていることが示され、注目を集めている。ヒトゲノムは典型的な遺伝子の形をなしていない部分がほとんどで、「ジャンクDNA」と呼ばれていたが、この部分からもRNAが転写されることが明らかになってきた。「ジャンクDNA」はいまや疑問符つきとなり、代わりに「RNA新大陸」なるキャッチフレーズが使われている。現在の分子遺伝学で最も注目されるテーマはエピジェネティクス(セントラルドグマに従わない遺伝的現象)で、これにもRNAの関与が示唆されている。

医学では個人に応じた医療(オーダーメイド医療)の開発が希望され、個人差に注目したゲノム・ポストゲノム研究がこれに役立つと期待されている。

バイオインフォマティックス、生化学
DNAの塩基配列データがゲノムプロジェクトの進展に伴い爆発的に増えたため、情報学的な手法を用いて生命現象の仕組みを理解しようとするバイオインフォマティクス研究が進展している。他方、ペプチド断片のアミノ酸配列解析技術も進歩し、これにゲノム解析の成果を組み合わせて関連遺伝子を検索するプロテオーム解析も可能となった。1990年代にはタンパク質のアミノ酸配列は精製して解析するより遺伝子の塩基配列から推定する方が早いという認識があったが、一概にそのようには言えなくなっている。

タンパクを扱っていた生化学については、一時 "衰退産業"のように言う者もあらわれ、「DNA解析さえすれば"全て"がわかるのだ」という風潮も一部にみられた。これに反して、タンパク質のアミノ酸配列(ポリペプチド)が判るだけでは不十分という声があがり、1990年代の大学の授業では公然と分子生物学を一方的に非難する不毛な議論が旧帝国大学を中心に盛んに繰り返された[要出典]。しかし、分子生物学的な手法による蛋白質の機能解析が多大な知見をもたらしたことは疑いようがない。 現在ではDNAのメチル化やアセチル化、タンパク質のユビキチン化やリン酸化、多糖類、脂質などによる修飾がその機能に寄与していることが明らかにされ、また、生体内でのタンパク質の性質や相互作用を理解する上で分子生物学的手法が重要であると認識されている。生化学者と分子生物学者の間で研究手法や知見の共有化が進み、両ジャンルの境界はあいまいになってきている。

マクロな分野への進出
「構造のないモノクローンな細胞系」分野から始まった分子生物学的研究では「素材の分子がすべてわかった」としても生物を「理解した」ことにはならないとの批判もあった。中でも、発生や脳などの研究分野においては分子生物学による解明が遅れたために、その批判が特に激しかった。しかし現在では、脳のように細胞間連絡のようなマクロ構造や電気的情報処理が重要な研究対象の機能解明についても、分子生物学的なアプローチが不可欠である。神経解剖学、神経生理学、脳機能画像研究などで分子生物学的手法に基づく成果が多く出ており、分子レベルでの機能の解明を認めない古典的な考え方は失当である。

日本の分子生物学
富沢純一国立遺伝学研究所元所長がアメリカから帰国後、アメリカで起こった分子生物学を理解できる研究者を育てるために第一回ファージ講習会を61年8月金沢大学医学部の実習室を使って10日間開催されたのが日本の分子生物学が発展する重要な契機となった。第三回から第七回までのファージ講習会は四国の大阪大学微生物病研究会観音寺研究所で開かれた。このファージ講習会で分子生物学を学んだ研究者が中心となり日本の分子生物学研究の基盤を造った。(朝日選書 渡辺政隆著 DNAの謎に挑む 遺伝子探求の一世紀より)

実験手法
DNAの抽出
ライブラリーの作成
クローニング
電気泳動
サザンブロッティング
ノーザンブロッティング
ウェスタンブロッティング
シークエンシング
PCR (Polymerase Chain Reaction)
マイクロアレイ
ChIP
ChIP on chip
定量PCR
ファーウエスタン
免疫沈降(免沈、IP)
RNAi
トランスジェニックマウス
コンディショナルノックアウトマウス
ピペド